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宮城谷昌光 三国志1_0824

 

建武元年(西暦25年)に始まる後漢王朝では、幼帝が続き、宮中は皇太后の外戚と宦官の勢力争いに明け暮れていた。正義の声は圧殺され、異民族の侵入が頻発し、地震や天候不順が続く。六代目の帝に皇子が生まれ時、守役に一人の幼い宦官がついた。その名は曹騰。後に八代目順帝の右腕となった彼こそ、曹操の祖父である。(文春文庫 裏表紙から)

 

 

宮城谷昌光 三国志2_2442

 

徳政を目指した順帝も急逝し、後漢王朝は外戚と宦官による腐敗を深めてゆく。そのような永寿元年(西暦155年)に、曹操は生まれた。続いて孫堅・劉備が。
三十年後、宗教組織太平道の信者を核に三十六万人が黄巾の叛乱に応じた時、曹操と孫堅は討伐に参加、劉備は学問を諦めて無頼集団の中心となっていた。(文春文庫 裏表紙から)

 

 

宮城谷昌光 三国志3_0877

 

霊帝が崩御すると、宮中で宦官の大殺戮が起きた。この混乱に乗じて力を得た董卓は独裁者となり、工程を長安へ移し、洛陽の都を焼き払う。各地の叛乱は中央を離れた独自の勢力となりつつあったが、強大な董卓軍に最初に挑んだ曹操は惨敗し、次に戦った孫堅が大勝した。劉備は北方の公孫?の元で、黄巾軍に初めて快勝する。(文春文庫 裏表紙から)

 

 

宮城谷昌光 三国志4_2441

 

董卓に大敗した曹操は、?州を拠点に黄巾軍を味方に引き入れていく。だが徐州の陶謙に父を殺され、仇討ちに徐州へ大虐殺の軍を進めている間、?州で叛逆が起き、窮地に追い込まれた。朝廷では董卓が謀殺されたが、董卓軍の将たちが幼帝を奪い合い、帝は都を出て逃亡する。孫堅は急死し、息子の孫策は袁術を頼って揚州へ赴いた。(文春文庫 裏表紙から)

 

 

宮城谷昌光 三国志5_1155

 

曹操はついに立った。天子を奉じることを決断、七年前に脱出した洛陽へと向かう。時代は、?峰を均すという作業をはじめた。ひときわ高い山だけが残る。たれに帰服すればよいか ― 志あるものは、高山の麓に集まりつつある。呂布、公孫?、袁術らが舞台から姿を消し、いよいよ曹操と袁紹は天下分け目の「官渡の戦い」へ。(文春文庫 裏表紙から)

 

 

宮城谷昌光 三国志6_1125

 

袁氏を滅ぼし勢いづく曹操。だが、諸葛亮と劉備の出会いがその霸道を阻む。曹操、孫権、劉備。三者が天下に並び立つ完成図を胸に献策を続ける諸葛亮。次第に力をつけた孫権は劉備とともに曹操を攻める ― 「赤壁の戦い」である。曹操軍は水上戦で得意の鶴翼の陣を展開し勝利を手にするはずが、疫病と風に足元を掬われ、窮地に陥る。(文春文庫 裏表紙から)

 

 

宮城谷昌光 三国志7_1012

 

荊州において劉備の勢力が膨張している。孫権は本気で荊州を劉備に任せたのであろうか。北方にいる曹操の目には、両者は協調しているように映る。そして西方には馬超と韓遂が ― 熾烈な戦いを進める初老の曹操にとっていまや歳月さえも障害になりつつある。建安二十一年、魏王となった曹操は、後継を誰にするか迷いの中にいた。(文春文庫 裏表紙から)

 

 

宮城谷昌光 三国志8_1222

 

戦え、と天はわれに命じている。天意を感じた関羽はわずかに笑み、そして孫権の兵に突入し斃れた。復讐を誓い荊州に出兵した劉備だったが、自らも死の病に伏す。三十余年の霸道を駆け抜けた魏王曹操もついに崩じ、王位は嗣王の曹丕に。戦国の英雄たちの死によって後漢王朝期は終焉を迎え、今ほんとうの三国時代が始まる ―(文春文庫 裏表紙から)

 


 

<宮城谷昌光さんの紹介>
昭和20(1945)年、蒲郡市に生まれる。早稲田大学文学部卒。出版社勤務のかたわら立原正秋に師事、創作をはじめる。その後帰郷、ながい空白ののち「王家の風日」を完成。平成3年、「天地の舟」で新田次郎文学賞、「夏姫春秋」で直木賞、「重耳」で平成5年度芸術選奨文部大臣賞、「子産」で平成13年の吉川英治文学賞を受賞。著書に「孟夏の太陽」「沈黙の王」「侠骨記」「春の潮」「花の歳月」「晏子」「介子推」「孟嘗君」「長城のかげ」「玉人」「太公望」「三国志」「風は山河より」「新三河物語」等の小説、エッセイ集「春秋の色」「歴史の活力」「春秋の名君」、歴史紀行「古城の風景」、「宮城谷昌光全集」(全21巻)など。(文春文庫から)

 


 

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