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司馬遼太郎 粟屋充 菜の花の沖(一) 文春文庫
カバー装画 粟屋充

 

江戸後期、淡路島の貧家で生まれた高田屋嘉兵衛は、悲惨な境遇から海の男として身を起し、ついには北辺の蝦夷・千島の海で活躍する偉大な商人に成長してゆく・・・・。
沸騰する商品経済を内包しつつも頑なに国をとざし続ける日本と、南下する大国ロシアとのはざまで数奇な運命を生き抜いた快男児の生涯を雄大な構想で描く。全六冊(文春文庫 裏表紙から)

 

司馬遼太郎 粟屋充 菜の花の沖(二) 文春文庫
カバー装画 粟屋充

 

海産物の宝庫である蝦夷地からの商品の需要はかぎりなくあった。そこへは千石積みの巨船が日本海の荒波を蹴り立てて往き来している。海運の花形である北前船には莫大な金がかかり、船頭にすぎぬ嘉兵衛の手の届くものではない。が、彼はようやく一艘の舟を得た、永年の夢をとげるには、あまりに小さく、古船でありすぎたが・・・・(文春文庫 裏表紙から)

 

司馬遼太郎 粟屋充 菜の花の沖(三) 文春文庫
カバー装画 粟屋充

 

蝦夷地の主・松前藩は、アイヌの人びとを酷使して豊富な海産物を独占していたが、この内実を他に知られるのを恐れ、北辺にせまる大国ロシアの足音を聞きながら、それをも隠し続けた。
漸くにして嘉兵衛が巨船を作り上げ、憧れのかの地を踏んだころから、情勢は意外な展開をみせ始めた。幕府が東蝦夷地の経営に乗り出したのだ(文春文庫 裏表紙から)

 

司馬遼太郎 粟屋充 菜の花の沖(四) 文春文庫
カバー装画 粟屋充

 

エトロフ島は好漁場であったが、すさまじい潮流が行く手を妨げ、未開のままだった。しかし幕府は北辺の防備を固めるため、ここに航路を確立する必要を痛感して、この重要で困難な仕事を嘉兵衛に委ねた。
彼の成功は、蝦夷人にも幕府にも大きな利益をもたらすであろう。が、すでにロシアがすぐとなりのウルップ島まで来ていた(文春文庫 裏表紙から)

 

司馬遼太郎 粟屋充 菜の花の沖(五) 文春文庫
カバー装画 粟屋充

 

ロシアは、その東部の寒冷地帯の運営を円滑にするために、日本に食料の供給を求めた。が、幕府が交易を拒絶したことから、報復の連鎖反応が始まった。ロシア船が北方の日本の漁場を襲撃すれば、幕府も千島で測量中のロシア海軍少佐を捕縛する。
商人にすぎない嘉兵衛の未来にも、両国の軋轢が次第に重くのしかかってくる・・・・(文春文庫 裏表紙から)

 

司馬遼太郎 粟屋充 菜の花の沖(六) 文春文庫
カバー装画 粟屋充

 

突然の災厄が、嘉兵衛を襲った。彼自身がロシア船に囚われ、遠くカムチャッカに拉致されたのだ。だが彼はこの苦境の下で、国政にいささかの責任もない立場ながらもつれにもつれたロシアと日本の関係を独力で改善しようと、深く決意したのである、たとえどんな難関が待ち受けていようとも・・・・
感動の完結篇。(文春文庫 裏表紙から)

 


 

きっと誰もが、その名を知っている小説家ではないだろうか。一部には「歴史を歪曲している」と批判をうけているが、人気があるゆえの代償か。
私の父母も司馬遼太郎の小説が大好きで、本棚にズラッと並んだ背表紙は図書館の様であった。
私自身は何から読み始めたのか定かな記憶はないが、「竜馬がゆく」や「最後の将軍」などの幕末を描いた小説だったのではないかと思う。母や姉などは、「新選組血風録」を読んだ後に東京都の日野へ足を運んでいた。歴女のはしりか・・・
いずれにして、読書の楽しさを教えてくれた作家であることは間違いない。

 


 

<司馬遼太郎の紹介>
大正12年(1923)、大阪生まれ、大阪外語大学蒙古語学科卒業。戦後まもなく、産経新聞社に入社し、文化部記者となる。昭和34年、『梟の城』により第42回直木賞を受賞。
36年出版局次長を最後に産経新聞社を退社。同42年『殉死』により第9回毎日芸術賞を受賞。主なる著書、『上方武士道』『豊臣家の人々』『国盗り物語』『竜馬がゆく』『坂の上の雲』『空海の風景』ほか。(中公文庫から)

 


 

司馬遼太郎 その他の文庫本

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新史 太閤記 上・下
馬上少年過ぐ
歴史と視点 ―私の雑記帖―
草原の記
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豊臣家の人々
手掘り日本史
言い触らし団右衛門
最後の将軍
大坂侍
最後の伊賀者
世に棲む日日 一〜四
関ヶ原 中・下
城塞 中・下
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韃靼疾風録
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花咲ける上方武士道

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